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願望に行きた偉人③ チンギス・ハン 前編

 

義で民をまとめた遊牧民の長

 
  チンギス・ハンは、13世紀に人類史上最大の国家「モンゴル帝国」を建国した騎馬遊牧民の長だ。チンギス・ハンは、様々な民族国家が群雄割拠するユーラシア大陸を、宗教や人種の差別がない、自由経済を基本とした平和な世界として統合することを願望とし、現在の中国北部から中央アジアに至るユーラシア大陸の大部分を征服した歴史上最強の帝王だ。 

 騎馬遊牧民は、季節毎に居住地を移動しながら牛や羊などの牧畜と狩猟を行う、ユーラシア大陸北側の草原地帯に生活する民である。遊牧民の生活にとって、家畜と水辺の牧草地の確保は重要課題である。かつては気候変動で草枯れや家畜の大量死が起こると、生活圏の移動を余儀なくされた遊牧民が、移動先で他部族と家畜や牧草地の奪い合いを頻繁に起こしていた。このような争いが生活の一部となっていたため、基本的に遊牧民の男子は戦闘時にはみな騎兵として戦うようになった。繰り返される争いの中で、騎馬隊を統率できる強いリーダーが部族を率いるようになる。やがて、多くの部族を従えたリーダーが王となり、国家を形成するようになった。  

 騎馬遊牧民の国家は、周辺国への遠征を繰り返した。その目的は、家畜、牧草地、財貨を奪うとともに、征服した民を奴隷とすることだった。戦闘を繰り返す遊牧民にとって、奴隷は兵員の補充という面で欠かせないものだった。また、定住農耕民族の国を征服し、その民に穀物や特産品を献納させることもあった。さらに、特別なスキルがある隷属民を工芸品や武器を作る職人、鉱夫、通訳や役人として自国で重用することもあった。その他、交易の要所となる都市を属領とし、商人から徴税したり、貿易で物資を仕入れて富国化を図る遊牧民国家もあった。遊牧民の国家にとって周辺国への遠征は、国の維持に必要な人と物資を調達するための定常活動となっていた。 

 12世紀のモンゴル高原では、このような騎馬遊牧民の国家が群雄割拠していた。当時の主要国としては、現在のモンゴル共和国東部にタタル、中央部にケレイト、西部にナイマンがあった。さらにタタルの北(現在の中国東北部とロシアの国境付近)にはコンギラトキヤトタイチウトが、ケレイトの北のバイカル湖南東部にはメルキトが勢力を誇っていた。チンギス・ハンは12世紀中頃、モンゴル部族の有力家系キヤト氏に生まれる(生年は1155〜1167年と諸説あり、特定されていない)。幼名はテムジンといった。テムジンに関わる伝承には、部族間の激しい争いの様子が伝えられている。  

 テムジンはキヤト氏の首長である父イェスゲイと母ホエルンの長男として生まれる。イェスゲイは敵対部族のメルキトに嫁ぐ途中の花嫁ホエルンを道中強引に連れ去り自分の妻としたという。当時は敵対する部族から女を掠奪することはよくあることだった。テムジンという名は、テムジンが生まれた時、宿敵タタルと戦っていたイェスゲイが敵の勇将テムジン・ウゲを捕らえたことに因んで付けられた。テムジンが9歳の時、父イェスゲイはテムジンの嫁探しに友好関係にあった母方のコンギラトに出かけ、デイ・セチェンの一家のところに立ち寄る。イェスゲイはデイ・セチェンの娘ボルテが気に入り、テムジンの許嫁にする約束を取り交わす。イェスゲイはその帰り道、酒宴を開いている一団と出会い、歓待を受ける。実はその一団はタタルの民で、イェスゲイはかつての復讐を受け、毒殺されてしまう。  

 父の急死を受け、幼いテムジンがキヤト氏を率いるが、同族のタイチウト氏が裏切り、キヤト氏配下の氏族の離反を煽って、テムジンたちを住むに適さない山中に追いやってしまう。テムジン一家は貧しい生活を送ることになる。一時テムジンは、タイチウト氏に捕らえられて殺されそうになるが、脱出してなんとか幼少時代を生き延びた。やがて成人となったテムジンは許嫁のボルテと結婚する。そこにかつて父イェスゲイに嫁を奪われた恨みを持つメルキトが襲撃してくる。この襲撃でテムジンは妻ボルテを奪われる。この危機にテムジンは、父イェスゲイとかつて同盟関係にあった、モンゴル中央部の強国ケレイトの王オン・ハン、そしてテムジンの子供時代からの盟友で、後にテムジンのライバルとなる親戚筋ジャディラト氏のジャムカの助けを借り、メルキトの牧営地を攻めて妻の奪還に成功する。 

 その後テムジンは、モンゴル高原で勢力拡大を狙うジャムカと仲違いして争うようになる。1190年頃に、両者はバルジュトの草原で最初の衝突を起こした(十三翼の戦い)。一方でテムジンはオン・ハンとの連合により敵対部族との戦いを有利に進め、モンゴル高原で勢力を拡大してゆく。1197年〜1200年、テムジンはメルキトとナイマンに遠征して多くの家畜と奴隷を獲得するとともに、父イェスゲイを毒殺した仇のタタルを征服してモンゴル高原東部を勢力下に置いた。テムジンとオン・ハンのモンゴル高原での勢力拡大に対し、1201年、タイチウト、メルキト、タタルなど12氏族は、ジャムカをリーダーとして反テムジンーオン・ハン同盟を結成する。同年、両陣営はコイテンの平原で激突する。激しい戦いの中、テムジンは首に敵の矢が受けて瀕死の重傷を負いながらも、かろうじて勝利する。ジャムカ連合軍は散り散りに敗走した。この戦いでテムジンは、かつてキヤト氏を裏切ったタイチウト氏に激しく復讐した。  

 1202年、テムジンはオン・ハンとの共同作戦で再度ナイマン王国に遠征する。この際、ナイマンの急襲を受けてオン・ハンの軍が窮地に陥る。そこに、テムジンが駆け付けてナイマンを退けた。大きな恩を感じたオン・ハンはテムジンと父子の契りを結ぶ。しかし、テムジンを嫌うオン・ハンの子セングンは、この契りに不満を持つ。そこにかつてテムジンに敗れたジャムカが密かにセングンに近づく。ジャムカは、ともにテムジンと戦おうとセングンをそそのかす。テムジンに戦いを挑むことを決意をしたセングンは、テムジンを裏切るよう父を説得する。息子の説得に折れたオン・ハンは、渋々ジャムカとともにテムジンに戦いを挑むことになった。 

 1203年、テムジンの軍勢はオン・ハン、ジャムカの連合軍とハラガルジト砂漠で衝突する。テムジンは一時オン・ハンに圧倒されて撤退するも、油断して宴会を開いていたオン・ハンの朝幕を奇襲して勝利する。オン・ハンとセングンは戦場から脱出するが、ともに逃亡先で殺害される。ジャムカはオン・ハンを早々に見限り、次の機会に備えて戦場から離れていた。こうしてケレイトを征服したテムジンは、モンゴル高原の東から中央部を勢力下に置く。モンゴル高原で残る強敵は西のナイマン王国だけとなった。 

 1204年、ナイマン王国の王タヤン・ハンは息子のグチュルクとともにテムジンに戦いを仕掛ける。ナイマン王国には、テムジンにかつて敗れたメルキト、タタル、ケレイトなどの残存氏族、そして宿敵ジャムカが集結した。ナイマン連合とテムジンの軍はチャキルマウトで衝突する。兵の数の上ではナイマン連合はテムジンの軍を上回っていたが、タヤン・ハンは臆病者で兵の統率もままならず、部隊はテムジンの軍に各個撃破される。ついには、タヤン・ハンが戦死し、ナイマン連合の敗戦が決定的となる。連合部族の大部分はテムジンに降伏した。ジャムカもついに捕えられ、テムジンに処刑される。タヤン・ハンの息子グチュルクは、モンゴル西方のカラ・キタイに亡命した。部族同士の復讐、連合、裏切りを繰り返す戦いを経て、1206年までにモンゴル高原はテムジンによって統一される。  

 テムジンがモンゴル部族を統一できたのには、彼の人柄が大いに関係していた。テムジンは寛容な性格で、恭順の意を示す部族は仲間として大事にし、自ら裏切ることはなかった。また、彼は主従の信頼関係を重要視する人だった。例え敵将であっても、主君に忠誠を誓い、主君の命を守るために勇敢に戦う戦士であれば、捕えて殺さずに自分の臣下に加えた。逆に助命を乞うために、主君を捕らえて引き渡しに投降してくるような裏切り者は躊躇なく切り殺したという。さらに彼は家臣への論功行賞は極めて公正に行った。戦場で勝手に戦利品を略奪するものがいれば、例え自分の親族でも厳しく罰して戦利品を取り上げ、功績に応じて家臣に平等に戦利品を分配したという。こうしてテムジンは、それまでの部族内の血縁を頼りにまとまる騎馬隊を、リーダーと個人的に深い信頼関係で結ばれた家臣が統率する強力な騎馬隊に作り変えることで、部族間の戦いを勝ち抜くことができた。  

 1206年、テムジンは重臣と部族長を集め、オノン河源でクリルタイを開く。諸部族の推戴により皇帝(ハン)に即位したテムジンは、モンゴル帝国の建国を宣言する。この時から彼はチンギス・ハンと名乗る。チンギス・ハンは共闘してきた信頼できる家臣たちを貴族として厚遇した。貴族に自らの代役として千人隊、万人隊といった大騎馬隊を指揮する栄誉を与えるとともに、それまでの功績に応じて支配地や隷属民の配分を行った。部族間の醜い争いを生き抜いてきたチンギス・ハンは、遊牧民の伝統的な血族主義から脱皮するため、部族毎の部隊を解体し、信頼できる貴族の元に騎馬隊を再編した。また、貴族を含めすべての民が守るべき法と裁判制度を作った。こうしてチンギス・ハンは、絶対的な皇帝としてのハンの権威、ハンに忠誠を誓う臣下が率いる強力な騎馬隊、そして法で国家の統一を図る体制を整える。体制を整えたチンギス・ハンはユーラシア大陸の制覇を野望を掲げて動き出す。 (後編へ続く)